1945年7月9日の米軍による岐阜空襲から、76年を迎えるのに合わせ、戦争の悲惨さと平和の尊さを考えるパネル展「子どもたちに伝える平和のための資料展」が、メディコスで開かれています。
本日、家族で見てきました。私は岐阜空襲というと、いつもおばあちゃんの話を思い出します。
私の亡くなったおばあちゃんも、岐阜空襲を経験した一人です。戦争の時のことは、あまり話したがらなかったけれど、岐阜空襲について話してくれたことが、今も私の胸のなかにあります。
おばあちゃんは、八ツ梅町(岐阜市中心部)に住んでいました。空襲は、夜なのに昼間みたいに明るく、空が真っ赤になっていて、死ぬ恐怖を感じたそうです。すぐ近くの町内の防空壕に入れてもらおうとしたところ、沢山の人で入れなかったため諦め、忠節橋(長良川)の方に必死で逃げたそうです。後で分かったことですが、その入ろうとした防空壕に焼夷弾が落ち、その町内のほとんどの人、知人が亡くなったと聴きました。
戦争を知らない世代が多くなる中、戦争の悲惨さや平和の尊さを考えることができる、この貴重な資料展は岐阜市主催で、資料収集や聞き取り調査などを続ける「岐阜空襲を記録する会」が企画し、毎年、この時期に開いてみえます。
岐阜市内の戦中戦後の様子を写した写真や焼夷弾などの資料が展示されています。12日(月)までの開催です。